https://yuimakko.hatenablog.com/

ココロがすこし楽になる。

今日のシアワセは自分のココロが決める。ココロ研究家 ゆいのつぶやき。

更年期に鬱々する日々が続くおはなし。

鬱々する日がけっこうあります。

まぁしょうがないです。

だって更年期だから。

 

更年期って

血液検査でわかります。

女性ホルモンが

びっくりするくらい少なくなって

ああ、エストロゲンが減少しているんだなって

 

そのときからの身体の不調は

びっくりするものがあります。

 

肌がかさかさになる。

血管が浮き出てくる。

アレルギーが出てくる。

ありえないくらい太りやすくなる。

そして痩せにくくなる。

身体がかゆくなる。

健康診断であちこちひっかかる。

疲れやすくなる。

やる気が出なくなる。

 

ま~見事!

なーんもする気がなくなるって

これですか!

という感じで(笑)。

 

鬱々するので

なんというか朝起きても

「ああ、朝が来てしまった・・・

また1日を始めないとあかん・・」

なんて思ったりする日々が続いたり。

 

「今日が最後の日だったら」

などと意気込んでいたあの私は

どこにいったのか・・・

とも思えるような無気力と虚無感に襲われて。

 

なんだか

気持ちは晴れないけれど。

 

それでもね。

いい。

こんな日もあっていいし。

やる気なければ

なんもせずに過ごそう。

仕事すら、

目の前のことをこなして

ひととも頑張ってしゃべらなくても

淡々と1日を過ごせばいい。

 

おもしろいことがあったら笑ったらいいけど

無理に笑わんでもいい。

 

そんな自分をよしとしないと

誰が自分を大事にしてくれるんでしょう。

 

この世に生まれて生きて

よくぞここまでやってきた。

どうせいつかは死ぬ運命。

意欲のあるときもないときもあって

 

忘れたくないのは

かけがえのない自分を

自分が大事にしてあげる。

無気力さえも。

 

そんなことが実は大事やったんか!

という

 

更年期になってわかることって

いっぱいあります。ね。

断捨離ことはじめ。

やっぱり。

モノを捨てる。

 

それがいろんなことを

解決するってこと、ありますね。

 

本当になにごとも

いま自分に必要なものは

必ず目に入るように

耳に入るようになってるもんで

なにごとも偶然はないって

本当にそうだなぁ

と思います。

 

人間が生きていることすら不思議で

どこから来てどこに行くのか

実はまだ全然解明されていなくて

そう思うと

不思議なことってあって当然。あったりまえで

ひとにもものにも波動があるんだよ、

とか

偶然はなくて必然しかないよ

とか

それも、また真実なり。

と思います。

 

だから。

ここのところずうっと気になっていた

家の片づけ。

子どもが大きくなるにしたがって

増えるモノ・モノ・モノ・・・

家がえらいことになってしまって

毎日それが気になってしょうがない。

断捨離の本も読みテレビも見て講演会も行って

ときめくこんまりももちろん読んで(笑)

「頭で」は片づけの断捨離の極意も

よくよくわかっている状態でも

やっぱり「実践」できなくて。

 

でも、やらなあかんねや、

と思えることが

すごくありました。

 

まずは、友達から聞いた

ご病気になられたお父様のこと。

身体もだんだん不自由になるから

布団でなくてベッドで寝たほうがいいと思うけれど

もうベッドを入れる余地がない。

何十年も前に買ったマンション、

子どもたち3人がそこで育ち成人し

そしてひとりずつ独立して

夫婦2人が残ったのに

結局モノだけが堆積し続けて

あふれかえっている。

そんななかに、ベッドを入れる余地がない。

だから

起き上がるのも大変だけどいまだに布団で寝ているのだと。

 

よく言われる

誰にとってもハードルの高い問題

「実家の片づけ」

 

それは結局

未来の私たちの家であり

 

いま、やらんといつすんねん!

ってことなのでしょうね。

 

てな話を聞いた次の日に

今度は独り暮らしのお父様が亡くなった友達から

その家の片づけについて聞く。

 

お父様ひとりで暮らしていたら

家はゴミ屋敷のようになっていて

そこに堆積するモノを

業者に頼んで処分していくよりも

古くなった家ごと解体してすべてを処分するのだとか。

なんとそのほうが手間もかからず

そしてそのほうが安いんだとか。

 

まじですか。

モノを家ごと捨てるっていう

その解決法。

 

でも、きっと私だったとしてもそうする。

だって亡くなったひとのもののことは

残された者たちにはわからず

結局は自分たちの生活もあるので

全部捨てることになる。

我々の人生も有限だから

残してしまうと

それこそ子どもたちへの負の遺産ともなりえる。

 

そうか~そうなのね。

 

これを立て続けに聞いて

 

ああ、やっぱり

私はまだアラフィフで元気で

今のうちに

モノを減らして

自分の管理できる量だけにして

すっきりさせないとなって

それをやることで

本当に必要なものはなにかが見えてきたり

自分が本当にやりたいことはなにか

残された人生の中でやるべきことはなにか

大事なひとは

大事なものは

何なのか

が見えてくるのかもしれないなって。

 

そんないろんなことが見えてくることも

頭でわかっているのに

 

やらんのですよねぇ。

 

でもこれは、

なにかしらやっぱり

私が目にすべき

耳にすべき

情報だったのかもしれないなぁと思える。

 

やっぱりいまやらんとあかんのでしょう。

 

断捨離。

いよいよ手をつけようかと思っています。

 

片づけができないのでなく

モノを捨てられないのでなく

片づけを「してない」だけ

モノを「捨てていない」だけ。

 

まずは引き出しひとつから、で。

 

いよいよ満を持して

断捨離を始めようと思います。

 

そう。あなたも。

これを読んだイマがチャンスです。

一緒に、その向こうになにがあるかを

見に行きませんか。

 

将来が不安で心配なとき。

アラフィフ。

もう数年すれば60歳になり

年金生活になりますよね。

なんだか鬱々します。

 

なにごとも前向きで

基本楽観的な

常に明るいと言われていた私が

こんなふうに

毎日毎日

なにやらどんよりした雲の中にいるような

そんな気持ちになることすら

 

誰が想像できたでしょう。

私自身が一番想像できなかったんです。

 

母親が

なにかしら将来の不安について語るのをみて

何を言うてるねんと

将来の心配せずに

今、このときを楽しんで生きようやないかと。

将来の心配をしたとて

いまが楽しくなるわけでもないし

ましてや心配や不安は

している時間も惜しいやんかと

せっかく生きてるんやから

そんな不安で心をいっぱいにするのは

かみさまに申し訳ないやんかと

 

そんな説教を日々していたにもかかわらず

 

まさか自分がこんなふうに

将来の不安や心配で心を満杯にして

なにか気持ちがあがらないような

こんな時間を過ごす日がくるなんて

 

ほんと想像もしてなかったんです。

 

でもねぇ、こんなとき、

もうどうやったってこの気持ちから抜け出すことはできないですよね。

 

気持ちを動かすにはどうすればいいか。

 

もうそれは「行動」するしかないんだろうなって

思います。

とりあえず。

先日ね、断捨離のやましたひでこさんが

番組で言うてはりました。

 

「断捨離は行動が先。

思考は行動によって促されていくのね。

やればやるほど、気づきが深まり、道が見えてくるのよ。」

 

って。

 

これ、断捨離だけじゃないですよね。

 

行動によって思考がうながされる。

 

これってある意味真実やと思うんです。

どうしようどうしようと思っているより

まず手を動かしてみる。

足を動かしてみる。

歩いてみる。

外に出てみる。

空を見上げてみる。

 

そこでなにかが変わってくる。

 

想像はするんです。

外に出ても一緒やろな

歩いてなんの意味があるんかな

空みたところで気持ちがいいだけなんじゃないの

けど。

実際にやってみたんかそれ?

 

ってことですよね。

 

うごかないと

本当に思うこと

感じることはわからない。

過去の記憶から想像はできても。

 

楽しいから笑うんじゃなくて

作り笑顔でも

笑顔を作るから楽しくなる。

 

これはある意味真実です。

 

だから、とりあえず靴を履いて

外に出てみる。

何の目的がなくとも

外を歩いてみる。

 

空を見上げてみる。

 

木々を見て歩いてみる。

 

近くにあるカフェに入ってみる。 

 

すこし高い建物にのぼってみる。

 

そこから

なにかしら気持ちが殻を脱いでいくことって

あるんですね。

 

なんかどうでもいいような気がした。

自分の好きなことってなんだっけ、

って考えたりした。

ああ、こんな思い出もあるよね、

ってタノシイこと思い出した。

あ、ちょっとお花でも飾ってみようかなって思っった。

おいしいお茶を飲もうかなって

すこしわくわくした。

 

現状は何も変わっていないけれど

気持ちが変わるといまもかわる。

いまが変わると未来も変わる。

 

これってほんとだなって思います。

 

やっぱり

不安に思って心配して

そんな「いま」の瞬間を

じっと立ち止まって

家の中で考えこんでいるよりも

 

まずは行動。

 

足も手も身体もあるのだから。

心配していても

楽しく過ごしていても

同じ1秒後が、1時間後が、1日後が、1年後が

やってくるわけで

それならやっぱり

心配をかかえていても

そんな自分を受け止めながら

いまを楽しく生きられることを考えたほうがいい。

 

そんな先に、

自分の将来があるんだろうなって

そう思います。

 

嫌いなひとに心をうばわれるとき。

なぜにあのひとはあんなに恵まれているのか?

 

あのひとはあんなに成功しているのか?

 

あのひとはなんであんなにいやなことばかり言うのか?

 

あのひとのそういうところが我慢できないねん!

 

本当にひとって

ひとのことが気になりますよね。

私とて同じ。

どんだけココロを学んだところで

やっぱりどうしても気になるし

どうしても腹立つし

どうしてもどうにかしたくなる。

伝えたくなる。

わかってほしくなる。

あなたが私を苦しめているのだよ、傷つけているのだよ、

ということを。

 

なんでしょうかねこれ。

 

でも、自分をみていてもわからないけれど

そういう言葉を発している他人をみていたら

すごくわかることがあります。

 

嫌いなひと

気になるひと

むかつくひと

 

って

 

自分と似ている「部分」を持っているひと。

 

似ているところに

めちゃくちゃ反応しているのだということ。

似ているからこそ

気になり

似ているからこそ

むかつく。

 

実はめっちゃ似ているところがある。

 

私はあんなじゃないよ!

実際あんなことしてないよ!

と思っていても

自分は実は

ああいうことをしたい!

あんなふうに何も気にせず、ああしたい!

心の奥では思っているのだということ。

 

これは意外に本当です。

 

ひとを見ていてわかるけれど

自分のことも

それをふまえて

めっちゃ客観的にみてみると

あ、これ?

ってところが

絶対に見つかります。

 

だから。

 

きらいなひと自分は

実は似てるんだってことをふまえて

 

自分を見直すことができるなって思います。そかそか、自分はこういうところがあるんか、

他人をいらつかせていたかもしれないな。

そかそか、こういうところは

自分の欠点だったんだな、

気づかなかったけど。

 

って、

それに気づくと

 

自分にフォーカスするっていうか

 

きらいなひとのこと

好きにはならないけれど

必要以上に

気にすることがなくなる気がします。

そう、全部はなくならないけどね。

 

でもそんな思いも

否定しなくってもよくって

ああ、私はきらいなんだな~

あのひとのあれが気になるんだな~

そうなのか~

受け止めてよいんです。

感じることは否定しなくってもよいのです。

人間だからそれは多かれ少なかれ

誰でもあって当然のこと。

 

まずは受け止めて

自分はそう感じているんだな~

と感じたうえで

 

よくよく観察して

よくよく考えてみると

 

似てるところに反応している自分に気づくんです。

 

そう、気づくだけでいい。

 

それですこし、

前進します。

 

気づけた自分、バンザイ。

すこし、自分が好きになります。

 

あるいみ、

嫌いな人は

恩人なのかもしれませんね。

感謝するにはいたりませんけどね(笑)

人間まだまだできてないからね。

 

でも、

それでいいよね。

 

 

世の中にたったひとり、取り残されてしまった孤独感の中で。

世の中に

たったひとりで

ぽつんと取り残されたような

 

だれからも気づいてもらえない

「わたし」という存在があるような

 

そんな気持ちになったことがあります。

 

信頼していたものが

足元からくずれて

いったい何の上に私は立っていたのか?

 

と思うこと。

 

とてもじゃないけれど

前のようには戻れないし

この大きな空虚な穴を埋めるものが

果たしてこのあと出てくるのだろうかと

 

とてつもない孤独感にさいなまれる夜があります。

 

そんなときは、

「おちこんでないで」

とか

「がんばらなくちゃ」

とか

「いやいや落ち込むとどんどん悪いほうにいくんやから」

とか

 

否定しなくたっていい。

 

実は否定すればするほど

そっちの方向にいくという

驚きの事実があったりします。

 

「こうならないように」

「こうなるのがこわい」

「こうなることがいや」

 

と思えば思うほど

 

「いや」なことや「こわい」ことや

「そうなりたくない」ことを

具体的かつ強力にイメージしているということ。

 

イメージトレーニングをしている、

ということ、なんですね。

 

だから

 

「ああ、いま私はこう感じているんだなぁ」

「これがこわいんだなぁ」

 

ただ、ありのままに

それを

認めてあげる、

というだけでいい。

 

自分自身を

自分の目の前の椅子に座らせて

自分自身の話を

まるで友達の話を聞くかのように

聞いてあげる、

ということ。

 

それが

「自分を大切にする」

ということなのかもしれません。

 

自分が落ち込んでいるときって

自分を大事にしているようで

実は全然そうじゃなくて

 

自分がどんどん自分を追い込んでいたりする。

 

だから、

「他人」の目線で

「自分」を見てあげることが

ひとつ、大事なことな気がします。

 

そうなんやなって

なにがこわいんやろなって

一緒に考えてみたり

 

その気持ちを否定せんでいいよって

そりゃこわいよねって

 

自分を抱きしめてあげる気持ち。

 

世界中から

どんだけ取り残されて

どんだけひとりにされたとしても

 

自分だけは自分をちゃんと見ていて

自分だけは自分をわかっていて

 

だから私は

実はひとりじゃない。

 

でもやっぱり

そんな夜があるから

まわりのやさしさや

なんでもないひとことや

すれちがいざまの笑顔や

 

そんなものの

生きているということのすごさを

 

たぶんひとよりずっと感じられる。

 

 

そして、その気持ちは

 

必ず

時間が癒してくれるという事実。

 

それを繰り返して

誰もが生きているという事実。

 

に気づくんです。

 

そう今日もあそこで

明日もここで

 

生きていくということのすごさ、

 

なにものかにならなくとも

ただ、そこで息をして

生きているのだというすごさを

 

気づけることの幸せよ。

 

世界にたったひとり取り残されても

私たちは

昨日と同じように今日を生きていく。

 

時間が必ず

そんな苦しみを

彩りに変えていくんです、ね。

 

 

 

言葉にすると実現するという仕組み。

言葉にしてみる。

 

ということがすごく大事な気がしています。

 

これまでを思い出してみても

言葉にしてきたことというのは

その言葉が

音として耳に入り

文字として目が認識し

言葉にしたころからなんだかひとりあるきして

 

自分の思考もだんだんクリアになったり

 

なにより、

そこにいきつくものが

ひょんなことから自分のまわりにちりばめられ始めるというか

 

偶然に目にしたネットの言葉、

偶然に聞いたそのタイミングでの情報、

偶然に耳に聞こえてきたとなりのひとの言葉の一端、

 

なんてところに

自分が言葉にしたことが

あっというまに解決してしまうような

 

言葉にしたことが

あっというまに実現してしまうような

 

そんなことがけっこう多かったりします。

 

引き寄せの法則と人は言うけれど

これはスピリチュアルでもなんでもなくって

必然の現実。

 

ぼんやり頭で思っていることを

言語化することで

人間の持つ言葉として

自分の脳が認識して

その言葉を

人に話しているようでも

人に向けて書いているようでも

一番見ているのは

一番聞いているのは

自分自身であり、

 

つまりそこから

自分自身が

その「言葉にしたこと」を

強く強く意識するようになるのだということ。

 

1日の中で

数万情報という情報が

自分のまわりであるわけだけれど

自分が認識するのは

その中の一部で

 

言語化したとたんに

その数万情報の中から

自分が取りだすのは

言語化したものに関するものだけとなり

 

現実として

「言葉にしたことが現実化した」

なんてふうに見ているだけのことだということ。

 

人間の心は本当に不思議です。

脳っていうのかな~

見えているものは

本当に限られたものだということですね。

 

そう考えると

言葉にする、

ということの大切さをしみじみ感じます。

 

いやだな~って思ってん、

これやりたいなって思ってん、

私、これ好きやなって思うねん、

こんな夢あるねん、

 

なんでも。

 

言葉にすることで

目の前の現実が変わってくるんですね。

なんの不思議もないのだということに

改めて愕然とします。

 

なにごともまず。

言葉にしてみること。

 

おすすめします。

息子の保育所時代のおはなし。

産まれてから保育所までは

ただただかわいい、大好き!な子育てをやってきて

いろんな子育て本を読んでは、

ああ、そうだ、

あまりおさえうつけずに

好きなように、と尊重したらいいんだな、

なんて思って

 

育ててきたつもりです。

 

とはいえ、息子は

初めてのこどもということもあり、

なかなかそういうわけにもいかず

けっこう押さえつけてきたり

自分の都合のよいようにと

厳しくしたこともあったのかもしれません。

 

妹が生まれたあたりからは

とにかく妹よりもお兄ちゃんを

というつもりで目を配ってきたのを記憶しています。

 

実際、初めての子はかわいく

男の子はかわいく

女の子も下の子もまた別のかわいさがあるのだけれど

初めての子は心配も多く

80%以上は目が息子に向いていたように思います。

 

息子が、おとなしいほうでなく

元気なほうであり

また調子にのったり

テンションが高まる子である、

と知ったのは、

保育所の年長さんのときだったと思います。

保育所の先生から

「おかあさん今日はね、部屋の中で

みんなの前でおしっこをしたんです。

パンツをぬいで。

テンションが高まってたんでしょうかね。

ふざけて。」

 

と聞いた日には

まっさお・・・・

なんだと~!

なんじゃそら~!

みんなの前でパンツを脱いでおしっことな?

 

いや、大丈夫なんこの子?????

 

ほんまにびっくりしました・・・・

 

いや私もたいがいテンション高い子やったと思うけど、

どんだけ~!

みんなに注目してほしい?

みんなを笑わせたい?

 

あまりにびっくりして

息子に何も聞けなかったことを思い出します。

私も新米の母親、

たぶんショックだったということもあるんでしょう。

 

それからというもの

「とにかく元気な子」

という感じ?ですか?

 

注目を集めたい。

 

という気持ちが強い子なのだな~

というのはなんとなくベースとしてあるのが

わかったような気がします。

 

そうかと思うと、

ものすごくナイーブというか繊細なところもあったりで

それはもう親にしかわからないというか、

やっぱりいろんな面を持ち合わせているのだな、

という感じ、

だったように思います。

 

ま、とはいえ、さして悩みというほどでもなかったように思います。

 

それよりも、毎日平日は忙しく、

土日は休みなので

とにかく土日に子どもたちとどこかに遊びに行く。

ということを私も楽しみにしていて

ものすごく調べて

いっしょに田植えをしに行ったり

キャンプに行ったり

ものづくりの体験をしにいったり

カブトムシをさがしにいったり

 

そんな土日をいつもいつも過ごしていました。

そりゃもう子どもがほんまにかわいくて

いっしょにいられることに幸せを感じ、

ああ、こんな世界があったのかと

子どもを通じて自分の世界が広がることを感じて

 

ありがたいことやなってね、

そんなふうに思っていたのを思い出します。

 

果たして息子はどうやったんやろな~

なんて、いまさら思いますけど。

そんな幼少期なのでした。